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スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町

スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町はタイにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)です。タイ政府の歴史公園法により整備された3つの歴史公園が登録されています。スコータイの町は小タイ族であるシーインタラーティット王によりスコータイ王朝の都として建設がなされました。この王朝はラームカムヘーン王の時代に大きく発展し、東南アジアの一大国となるがその死後、勢力は衰えアユタヤ王朝が建つ頃には、小国になり、アユタヤ王朝の属国の時代を経てアユタヤに吸収されたのです。スコータイ王朝には数々の主要都市があり、このうちの幾つかが廃墟になりながらも現存しています。それらの中には、スコータイ同様に世界遺産登録されているものがあります。スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町は、80年代始めにスコータイと関連する歴史公園3つが相次いでタイの文部省に登録されました。その後文部省はこの遺跡をユネスコに推薦し、1991年に世界遺産(文化遺産)に登録されたのです。

ムアンスコータイ郡

ムアンスコータイ郡はタイ・北部にある郡です。スコータイ県の県庁所在地(ムアン)でもあります。大きく旧市街と新市街に分かれており、新市街から西に12kmほどの地点に旧市街があり、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたスコータイ歴史公園があります。歴史は古く、5世紀頃にはプラヤー・パーリーラーチャーが国を建てたとするタイの北方の文献が存在しますが、実証を得ません。プラ・ルワン伝説によれば、11世紀ごろには国が建っていたとしていますが、あくまで伝説でありこれも実証を得ません。いずれにせよ、この地は当時より交易の要所であり、ずっと西進すればベンガル湾にまで到達できた上、スリランカや南インドの港市とも交流があったと推測されます。13世紀にスコータイ王朝がシーインタラーティット王によって建てられる頃には、既にクメール王朝下で旧市街は都市として機能したと考えられており、その後、スコータイ王朝はアユタヤー王朝によって吸収され消滅してしまいますが、アユタヤー王朝下でも地方中核都市として機能していました。1767年ビルマ軍の侵略によって、旧市街は壊滅寸前にまでおちいりましたが、トンブリー王朝をへてチャクリー王朝が成立すると、チャックリー王朝初代の王ラーマ1世がヨム川沿いに市街地を移し、新市街を形成しました。瓦礫と化した旧市街から、遺跡の煉瓦が首都建設のため持ち去られました。1896年現在のムアンスコータイ郡にあたるスコータイ郡が成立、1932年にはスコータイが県はサワンカローク県に編入され、市街地はスコータイターニーと名を変えました。後、1949年にスコータイは再編成され、ムアンスコータイ郡は県庁所在地になりスコータイ県が成立したのです。

バーンチエン遺跡

バーンチエン遺跡(โบราณสถานบ้านเชียง)は、タイ・ウドーンターニー県・ノーンハーン郡にある古代文明の遺跡です。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。バーンチエン遺跡では土器を中心に動物の骨なども見つかっており、黄河文明・メソポタミア文明とは違った、東南アジア独自の文明として注目を集めています。土器には独特の渦をもった幾何学模様をもつものがあり広く知られています。なお、紀元前数千年というタイの有史以前の時代のものであり、文明の主である民族は今のところ不明とされています。

元々森林地帯であったバーンチエンは小さな村でした。遺跡自体はかなり以前から外に露出しており、その遺跡の土器は、周辺の村人によって拾われ、カメに使われるなど日用品として利用されていたのです。しかし、1960年に地元の学校、プラチャーチエンチュート学校の教師群がこの土器は実は考古学的な遺産なのではないかと考えるようになり、学校内に保存を目的とした博物館を設置、保存にあたります。同年タイ文部省の発掘が始まりました。1972年にはこの遺跡の重要性などがさらに明らかになっていたため、文部省は発掘を続けることを決定しました。同年には国王・プーミポンも訪れ、国王が「この遺跡の物品はこの地にあるべきであり、バンコクの博物館で展示すべきではない」と言ったことにより、バーンチエンに国立博物館が設立されたのです。日本に知られるようになったのは、朝日新聞と毎日新聞の共同による発掘研究作業が進められた時から。西洋へは1996年アメリカ人の学生が発見したことにその認知が始まり、以降ペンシルベニア大学により以降積極的な発掘が行われるようになりました。当初、紀元前4630年ぐらいのものという説がありましたが、これに否定を唱える学者がいたため奈良大学で発掘物の炭素検査を行いました。この結果、現在では紀元前3000~2000年頃のものと推測されています。発掘により分かったことはバーンチエンでは、そのころ稲作や豚などの家畜が行われ、ガラスや、青銅器・鉄器などが使われていたということです。なお、東京国立博物館東洋館において出土品の一部の展示を見ることができます。

古都アユタヤ

アユタヤ歴史公園は、タイ、アユタヤにあるアユタヤ王朝の遺跡群です。周辺の遺跡とともにユネスコの世界遺産に古都アユタヤの名前で登録されています。アユタヤー遺跡群は、チャオプラヤー川とその支流であるパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中しています。これは、敵からの防御を考えて中心部の回りに運河を掘ったことによるもの。ワット・プラシーサンペット、ワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡、王宮跡が残っています。

この遺跡を作ったのは1351~1767年に存在したアユタヤ王朝です。この王朝はナーラーイ王時代には現在のラオス、カンボジア、ミャンマーの一部を領有するほどの勢力を持っていました。中心都市であるアユタヤは、流れの穏やかなチャオプラヤー川に位置し、貿易に持ってこいの地形であったのです。この貿易に適した地で、王はその独占貿易で莫大な利益を収め、同時に上座部仏教を信仰していた王は、この莫大な利益を元に数々の寺院を作り出しました。しかし、1767年にビルマ(ミャンマー)の攻撃を受けてアユタヤ王朝は消滅してしまいます。同時にアユタヤ市内の建造物や石像は徹底的に破壊され、ほとんどの寺院は廃寺となり、王宮も台座を残すのみとなりました。世界的にみてアユタヤの建造物の多くが比較的新しい建造物であるにもかかわらず、そのほとんどが煉瓦のみになっているのは、このためでなのです。

ワット・プラシーサンペット

名称にはワット(寺)と冠していますが、実際は寺院ではありません。名称は御吉祥活仏寺院程度の意味。この寺院に建つお寺は、歴代のアユタヤ王朝の王の内3人の遺骨が修められていますが、アユタヤの王が仏と同一視されたのでこの名前があります。伝説によればこの地には元々、アユタヤ王朝の創設者・ラーマーティボーディー1世によって宮殿が建てられていたとされています。後のトライローカナートの時代になると宮殿が移築され、この地は王専用の仏教儀式の場となったといいます。さらに時代は下り、ラーマーティボーディー2世の時代、現存する仏塔のうち東側の2つが建てられ、それぞれラーマーティボーディー2世の父であるトライローカナート王、前述・ラーマーティボーディー2世の兄であるボーロマラーチャーティラート3世の遺骨がそれぞれ納められました。この後、ラーマーティボーディー2世が崩御すると3つ目の仏塔が建てられ、その遺骨が納められたのです。大きな破壊を受けた他の仏塔遺跡と比べ、漆喰などが当時の状態をよく保存しているため、アユタヤ時代の建築がそのまま見ることの出来る貴重な遺跡です。
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